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第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない

last update publish date: 2026-10-29 21:26:52

第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない

 スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。

 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。

 陽菜は自分のレーンを走っている。

 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。

 だから、ただ目で追う。

 それしかできない。

「行け……」

 声が勝手に出た。

 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人も

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    第88話 自己ベスト。それでも彼女は、最初に笑わなかった 自己ベストを更新したのに、陽菜はすぐには笑わなかった。 レースを終えてからしばらく、俺たちは競技場の外側にある日陰を並んで歩いていた。陽菜は「ちょっとだけ待って」と言ったあと、スポーツドリンクを少しずつ飲みながら、ほとんど何も話さなかった。俺も無理に言葉を足さない。結果が出た直後くらい、本人の中で感情が追いつくまで待ってもいいと思ったからだ。 それでも、沈黙の中で考えてしまう。 自己ベスト。 前より速い。 数字だけ見れば、間違いなく前進だ。 でも、陽菜が狙っていたタイムにはほんの少し届かなかった。 だから「おめでとう」と言えば、目標未達を軽く扱っているような気がする。「惜しかった」と言えば、自己ベストを喜べないような言い方になる。「すごかった」と言えば、また結果を外側から勝手に良いものへ変えてしまうかもしれない。 前の大会で、それはかなり学んだ。 俺がどれだけ良い結果だと思っても、陽菜が悔しいなら悔しい。 今回は、そこに嬉しさまで混ざっている。「悠真」 しばらく歩いたところで、陽菜がようやく口を開いた。「何」「さっき、分からないって言ったじゃん」「嬉しいか悔しいか?」「うん」「今は分かった?」 陽菜はすぐには答えず、近くにあったベンチへ座った。俺も少し間を空けて隣へ座る。「……まだ、半分くらい」「半分?」「自己ベストは嬉しい」「うん」「ちゃんと嬉しいの。それは嘘じゃない」「うん」「でも、目標の数字見た瞬間に、そっちも同時に見えた」

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    第87話 彼女が走っている数十秒だけ、俺には何もできない スタートの合図が鳴った瞬間、陽菜は俺の知っている夏目陽菜ではなくなった。 もちろん、別人になったわけではない。けれど、さっきまで俺の前で「好きって言って」と頼み、少し怖いと笑い、日焼け止めの匂いを気にしていた彼女と、今トラックを走っている選手が、同じ人間なのにまるで違って見えた。 陽菜は自分のレーンを走っている。 最初のカーブ。前半は飛ばしすぎないと以前聞いたことがある。それでも、観客席から見ている俺には速いとしか分からない。陸上を何年もやっている人間ならフォームやペース配分をもっと細かく見られるのだろうが、俺にはそこまでの知識はなかった。 だから、ただ目で追う。 それしかできない。「行け……」 声が勝手に出た。 聞こえるわけがない。周囲にはもっと大きな声で選手名を叫ぶ人もいるし、トラックそのものが遠い。俺の声など陽菜には届かないだろう。 それでも言う。「陽菜、行け」 前の選手との差がどうなっているのか、一瞬では分からない。レーンが違うので、見た目の位置だけでは順位も判断しづらい。 俺は息を止めそうになり、途中で自分が呼吸していないことに気づいた。 走っているのは俺ではない。 なのに苦しい。 意味が分からない。 ホームストレートの反対側へ入る頃、陽菜の腕の振りが少し大きくなった。 あれが予定通りなのか、それとも苦しくなっているのか分からない。 分からないことばかりだった。 脚、大丈夫か。 ふくらはぎ。 昨日張っていた場所。 一瞬そこへ考えが向かい、俺はすぐにやめた。 今、それを考えても何もできない。

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    第86話 今回は、彼女から先に「好きって言って」と言われた 大会当日、競技場の入口近くで陽菜を見つけた時、俺は最初に「おはよう」と言うつもりだった。 昨日、二人でそういう話をしたからというより、それが一番普通だったからだ。大会だからといって特別な言葉を用意しておく必要はない。むしろ、前回みたいに余計なことを考えすぎるより、その時の陽菜を見て話せばいい。 そう思っていたのに、俺が口を開くより先に、陽菜はスポーツバッグを肩へ掛けたままこっちへ来て、少しだけ困った顔で言った。「悠真、今日だけは先に好きって言って」 かなり意外だった。「今?」「今」「前回、レース前は嫌だって言ってたけど」 そこまで言ってから、言い方を間違えた気がした。 陽菜も少しだけ眉を上げる。「それ、今言う?」「比較したかったわけじゃない」「でもした」「ごめん」 陽菜は一度息を吐いてから、肩に掛けていたバッグを持ち直した。「まあ、私も前と逆だなって思ってるからいいけど」「じゃあ、本当に今?」「うん。今は欲しい」 なら、迷う理由はない。「好きだよ、陽菜」 言うと、陽菜の顔が少しだけ緩んだ。「もう一回」「何で」「一回で終わると思わなかった」「注文多いな」「今日だけ」「好きだよ」 今度は少しゆっくり言った。 陽菜は数秒こっちを見たあと、「うん」と頷いた。その返事が昨日より落ち着いていたので、俺のほうも少し安心する。「これでいい?」「かなり」「

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    第83話 恋人が頑張っている姿を見るのが、つらい 大会まで四日となった午後、フェチ研の相談箱に一枚のカードが入っていた。 最初に読んだのは澪先輩だった。いつものようにカードを種類ごとに分けていた手が途中で止まり、少し考えてから神崎先輩へ渡す。「これ、短く返すより話したほうがいいかも」「どれ?」 神崎先輩が受け取り、俺と陽菜にも見えるよう机の中央へ置いた。 相談そのものは長くない。『恋人が資格試験の勉強をしています。本人がやりたいと言って始めたことなので応援したいのですが、最近は寝不足で食事も適当になり、会ってもずっと疲れています。頑張っている姿を見るほど「もうやめればいいのに」と思ってしまいます。でもそれを言ったら、相手の努力を否定することになる気がします。好きな人が頑張っているなら、黙って応援するべきでしょうか。』 読み終わって、最初に頭へ浮かんだのは陽菜だった。 隣を見る。 陽菜もこちらを見ていた。「今、私思い出したでしょ」「うん」「即答」「隠しても意味ない」「まあ私も、自分のことみたいだと思ったけど」 陽菜はカードをもう一度読む。「でもこれ、かなり分かるかも」「止められる側として?」「両方。もし悠真が何かのために毎日寝ないで頑張ってたら、私たぶん最初は応援する。でも顔色悪くなってきたら、普通にやめてって言うと思う」「俺がやりたいって言ってても?」「言う。だって倒れたら嫌だもん」 神崎先輩が椅子へ深く座り直した。「そこなんだよね。相手が頑張ってると、応援することが善で、止めることが悪みたいになりやすい。でも実際はそんなに単純じゃない」「じゃあ、この人は言っていいんですか」

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